東京では文化財がよく保存されており、例えば、池袋に立教学院が所有者となる旧江戸川乱歩邸土蔵や池袋の重林寺が保存している木造聖観音立像等。しかし、中国には多民族で近隣がおおくて、昔から、戦争と王朝の代わりのせいで、文化財が常にある程度で壊されてしまいました。
例えば、今の東京や池袋に唐風の木造なお寺がよく見えますが、中国には逆に珍しいです。木造の匠も少なくて木造がどんどん伝わらなくなってしまう中国には、「匠人精神」もどんどん失われた。しかし、中国武漢には、曽憲高(図1)と言う82歳の銅細工師(中国語:铜匠 tóng jiàng)はずっと初心を持って銅製業に身を捧げて、現在の功利的社会にはまったく真珠のように輝いている存在です。
曽憲高は13歳からお父さんの銅細工屋で働いていました。銅製品が段々失うと伴い、銅細工もだんだん少なくなってきました。曽憲高も銅細工をやめて、自動車の修理工場に入りました。1986年、定年退職になった曽憲高は銅細工屋を開いて、近隣の銅製品が壊れたら曽憲高の銅細工屋に来て修理します。ですが、銅製品の修理が簡単で曽憲高は段々このような仕事に満足していませんが、暇な時に曽憲高は自分でもっと精巧な銅製品をつくりたがりました。蓮根から作って、蓮、魚やトンボ等も次々と作って半年後に「荷塘月色」(図2の真ん中)と言う美しい銅製品が完成しました。
近隣からの褒美をもらった曽憲高は非常に楽しかったです。十年以来、彼の小さな店舗でいろいろな作品が保存しています。最も素敵なのは「黄鹤楼」(中国語:huáng hè lóu、図3の左側)です。黄鶴楼(図3の右側)は中国の「江南三大名楼」のひとつで、唐の詩人崔颢の詩「黄鶴楼」で世の中によく知られてきました。曽憲高の作った銅製の黄鶴楼はチャームポイントとして各階の楼門が開閉できて、非常に精妙な芸術品です。
しかし、82歳になった曽憲高は生徒がなくて技術が伝承できません。あるインタビュで「無料でもいいけど、やはりこの技術を受け続く人がいて欲しい」と言いました。今、実は曽憲高のお店の賃金が彼の収入より高くてずっと赤字生活になっています。無形文化財伝承者ですが、意外と貧乏です。収入が低くて銅細工になりたい人が段々少なくなってきて、曽憲高はこの現状を変えようという気持ちはありますが,いかんせん力不足です。
私たち中国語教室は常にこのような匠を紹介し、彼らのような中国文化を世界でも活躍できるように一生懸命に頑張っています。私たち中国語教室は雀の泪ですが、きっと世界に役立ちます。ですから、曽憲高のような「匠人」になり、初心を持って中国語教育に身を捧げます。