漢字の歴史―その2

  西周時期、青銅器がだんだん頻繫に使われていて、新しい文字―金文が出来ました。金文は青銅製の鼎と石鼓で彫刻した文字、鐘鼎文と石鼓文とも呼ばれています。周宣王時期の太史(官名)に創造されたといわれています。今、周代の四言詩文を書いている石鼓が故宮博物院で保存されています。下記の挿絵は金文です。

  封建的分離主義のために、国は別々であり、文字は同じではありません。始皇帝が中国を統一した後、初めて文字は統一されました。その時の文字は大篆でした。大篆は周宣王の太史が作られたと言われています。常に竹簡と絹織物で書かれたので、大篆のフォントは金文より美しいです。内容から見ますと大篆は甲骨文や金文との区別がほとんどありません。しかし、大篆を書く時、一点一画もおろそかにしない、あまりにも標準的であり、執筆速度は非常に遅かったため,もっと単純なフォントを持っている小篆が登場しました。当時の宰相―李斯は文字を集めて整理しました上で、簡略化しました。この簡略化された文字は小篆だと呼ばれます。小篆の表記には一定の規範があり、部首の表記と点画の位置が固定されており、一般的に左側に置かれています。それによって漢字の完成が更に促進されました。下記の挿絵は大篆と小篆です。

  漢時代、隷書は非常に盛んで、小篆の構造の特徴から完全に脱していませんでしたので、基本的に四角になっていました。漢字の書体が隷書に発展しますと、新しい階段に入りました。熟した隷書の字形は楷書と似ているため、一般的に隷書を古文字と見なすことはありません。ですから、小篆から隷書までの書体の変化は漢字の発展に対して革命的でした。下記の挿絵は隷書です。

 

  隷書が流行していた時に、楷書が芽生えました。晋の王羲之と王献之父子は楷書の真の創始者で、篆書の丸い筆致を吸収し、隷書の方正の特徴も保留しました上で楷書を作りました。これから、漢字の構造がほぼ固定されました。当時楷書は「真書」と呼ばれましたが、後人はこの書体を書道の手本としましたので「楷書」と改称しました。下記の挿絵は楷書です。 

  草書は楷書の変体です。元々は草稿を起草しました時、草書きによる一つの変体、その後は通行の書き方になって、更に純粋な書道の一種に進化しました。両漢(西漢と東漢)時期の草書は主に章草でした。章草は筆画と筆画の連帯性を重視し、偶然には途切れることがありますが、筆意は依然として繋がっていました。唐代になりますと、草書は狂草に発展しました。張旭と懐素は草書を書く時、思いのままに筆画を増減したり、漢字の構造を変えたりして草書を狂乱の境地に押し上げました。草書は完全に書家の個性的な芸術品になりました。下記の挿絵は草書です。(続く)

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